カテゴリ:家族のこと > ころころりん(私)

これまで会った末期がん患者さんの話(その1)
(その2 抗がん剤への抵抗感)
(その3 Aさんの煮物)
(その4 Bさんのおにぎり)
(その5 Cさんの栗饅頭)
(その6 Dさんの話)
の続きです。


Eさんは、これまでの4人と違い、直接会ったことがない人です。

会ったことがない人のことを書くのは看板に偽りがありますが、Dさんの話で思い出し、関連するので書こうと思いました。

Eさんはホスピスで働く40代の看護師でした。「それなのにどうして」と後から悔やんでいたらしいのですが、日々忙しくがん検診は受けていなかったそうです。ある時、胸を触れただけでわかるほどの大きなしこりに気づいて受診すると、乳癌とわかったそうです。

「がん患者にこれまで医療職として関わってきて、今度は患者の立場もわかるようになった。ホスピス看護師は私の天職」

と言って、手術後に仕事復帰し、さらには「いずれ保険収載されるはずだかから」と自費でリンパドレナージュの研修を受けに行ったり、前向きに仕事に打ち込んでいたようです。

この頃、私はEさんのお母さんと関わりができたので、こういった経緯をEさん母から聞いていました。

そうするうちにEさんが再発したのですが、ちょうどDさんとの関わりができた頃でもあり、乳癌は末期と言われてから数年経っても存命なんだろうと思っていました。

実際には、Eさんは再発から1年前後で、勤務先の病院で亡くなりました。

末期の乳癌といっても経過はいろいろなんだな、と思ったことと、「私が代わってやりたかった」と言っていた当時70歳前後のEさん母が翌年誰にも看取られず亡くなったことが、私にとってなかなか大きな出来事でした。

↓Eさんはレース編みが趣味でした↓
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これまで会った末期がん患者さんの話(その1)
(その2 抗がん剤への抵抗感)
(その3 Aさんの煮物)
(その4 Bさんのおにぎり)
(その5 Cさんの栗饅頭)
の続きです。


Dさんは、末期の乳癌でした。この人に関しては、他の3人と違い、初めて会った時点で骨や肺への転移が見つかって既に数年経つという状況だったので受診の経緯や治療の経過などは知りませんが、リンパ浮腫には苦しんでいたので、リンパ節郭清など局所療法を終えての再発転移だったのだろうと思います。

弾性スリーブが保険適用されるようになって助かると話していたましたが、私はとっさに「弾性」と脳内変換できなくて、「乳がんはホルモンの影響があるから男性性を高めるようなものがいるのか」などとトンチンカンな勘違いをしていたことを思い出します。 


私はちょうど検診から足が遠のいていた頃で(
クリニック探し)、末期と言われてから数年間も在宅生活を続けられるなんて、乳癌は本当に予後がいいんだなあ、だからやっぱりきちんと検診を受けて早期発見に努めないとなあ、と思ったものです。

Dさんは、私が関わった初老期の末期癌患者さん達の中で唯一、介護保険の訪問系サービスを利用していた人でした。
末期と言われてからも比較的長く自立した生活を送っていたようですが、日常生活で近居の家族の手を借りるようになり、やがて入浴できなくなったときに訪問入浴サービスを利用するようになりました。
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↑拾い画です。自宅の浴槽が介助に向かないときなどリビング等に浴槽と場合によってはお湯も持ち込んで入浴させてくれます

この過程で、それまで長く関係の良くなかった家族と連絡をとりあうようになり、長年のわだかまりが全てとけたとまでは言えないかもしれませんが、送り出す心の準備ができるだけの時間があったと、亡くなった後に家族から聞きました。

癌で亡くなることの最大のメリットだと私が考えていることもこれで、送る側、送られる側、双方に準備する時間があるということです。
ママのお別れ会にも書きましたが、私の没後は飲み仲間を始めとする知人達(とか、あんまり知らない人も含めても)が楽しくワイワイするようなお別れ会を開催してほしいので、ムスメちゃんが滞りなくその準備をできるよう、生前からいろいろ伝えておきたいと思うのです。

これまで会った末期がん患者さんの話(その1)
(その2 抗がん剤への抵抗感)
(その3 Aさんの煮物)
(その4 Bさんのおにぎり)
の続きです。


Cさんは、末期の肝臓癌でした。もともと酒好きで仕事のない時は朝から飲んでいる、いつも赤ら顔の人でした。

ある時、ワンカップ片手に自転車に乗ったCさんにバッタリ会いました。聞けば、全身の痒みがひどくて皮膚科を受診した帰りで、皮膚科医から

「えらく黄疸が出てるし、その腹の出方も気になるから一度大きい病院で診てもらったらどうかな」

と言われたのだとか。私は黄疸もお腹の膨らみもわからなかったのですが、そう指摘されたのなら肝臓が悪いのかもしれないね、と地域の基幹病院を受診するよう勧めました。

しばらくして、その病院の相談員さんから連絡がありました。

「Cさんが当院を受診したことはご存じですよね?肝臓癌で入院しました。腹水でパンパンでしたが気づきませんでしたか?積極的な治療をする段階でないためホスピスを探しているのですが、身元引受人となるべき親族がないことがネックになっています。友人知人でもいいから誰か、と求められてCさんに心当たりを聞いたらあなたの名前が出たので連絡しました」

私は身元引受人にはなりませんでしたが、受入先のホスピスとよく相談して、というか病院の相談員さんが頑張ってくれて、なんとか受け入れてもらうことができました。

私の目は黄疸にも腹水にも気づかない節穴でしたが、その後の面会時に「自分でおかしいと思わなかった?」と尋ねると、「なんかおかしいな」と前から思っていたものの「何か怖い病気だったら嫌だな」と思って受診しなかったそうです。(←デジャヴュじゃないです。AさんBさんも全く同じことを言いました)

ホスピスって受入決定前に面接があるんですね(他のホスピスもあるのかな?)。本人が自分の状況を理解していることを確認するとともに、何のためにホスピスで過ごすのか明確に共有するためと聞きました。その面接で「ホスピスに来たら残された時間で何がしたいですか?できるだけ実現するようお手伝いしますよよ」と言われ、「饅頭が食べたい。阪神タイガースの試合を観たい。酒を飲みたい」と希望を伝えたCさん。

転院後、お酒と饅頭は早くに実現しましたが、難しいのが阪神タイガースの試合です。球場へ行くことはできなくてもナイター中継が観られればいいのですが、タイガースの試合を放送している局は受信できない地域です。
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ホスピスのワーカーさんが、↑この局が受信できる地域に住むお友達に頼んで録画してもらい、送ってもらったDVDで見せてくれたそうです。Cさんは当時ちょうど地デジ化でテレビが映らなくなったのをテレビが壊れたと思って長くテレビを観ていなかったため、とても喜んでいたそうです。


ホスピスに足を踏み入れる機会もなかなかないだろうと思い、ある日、面会に向かいました。手土産は饅頭の中でも一番好きだと言っていた栗饅頭です。すると受付で

「入院中の患者さんにそのような名前の方はいませんよ」

と言われ(いやもうデジャヴュですね、Aさんの時と同じパターン)そんなはずはないと調べてもらったら

「ああ、この人はさっき葬儀屋さんが迎えに来て退院になってますね」とあっさり教えてくれました。

皮膚科帰りにバッタリ会った日から1か月も経っていませんでした。亡くなる数週間前まで(実は病気に怯えていたとしても)気ままに生きて、最期は病院とホスピスの職員さんのおかげで好きなことができたのは間違いありません。皮膚科を受診していなかったらどんな経過だったのかわかりませんが、立ち退きで住民が殆どいなくなっていたアパートで急変していたら、と想像すると、入院できてよかったなぁとしみじみ思います。

これまで会った末期がん患者さんの話(その1)
(その2 抗がん剤への抵抗感)
(その3 Aさんの煮物)
の続きです。


Bさんは、末期の胃癌でした。食欲不振や腹痛などの自覚症状はありましたが、昔からお腹が弱かったので特に不審にも思わず過ごしていました。段々便の状態もおかしくなってきて「もしや」と思ったものの「何か怖い病気だったら嫌だな」(←これを聞いた時はデジャヴュかと思いました。Aさんと全く同じです)と市販の整腸剤を気休めにしていたものの、仕事中に吐血することが複数回あり、職場の人の説得でようやく受診に至りました。

初診の時点で肝臓には転移していましたが、「今ならまだ手術できるから」と治療方針を示されましたが、

「若い頃に田舎を飛び出て親兄弟とも何十年と連絡をとっていない、結婚したこともない、友人もいない、貯金もない、こんな自分が延命されて何の意味があるのか」

と手術も抗がん剤も断固拒否し、仕事も続けながら身の回りの整理を始めました。

痛みが強くなってきた頃、「痛みだけは取ってほしい」という本人の希望によりオピオイド導入の薬剤調整のため入院となりましたが、入院中、「手術しないことは理解したがせめて抗がん剤をやらないか」という医師の勧めに

「痛みを取るためだけに入院したのに、このままでは騙されて抗がん剤をやらされる」

と思いこみ、制止を振り切って退院してしまいました。訪問看護や訪問診療の段取りもつけないうちに本当に無断で帰宅してしまったので、周りは対応に追われました。

コンビニのおにぎりが好物で、あまり食べられなくなってからも毎日歩いて買いに行き、コンビニの前でタバコを一本吸って帰ってくるのが日課でした。ある時自宅を訪ねると、鶏五目のおにぎりがあったので、これが好きなのか尋ねると

「せっかく好きな具のおにぎりを買ってきても具にたどり着くまで食べられないから最近は鶏五目か赤飯を買うけど、本当はタラコがいい」

と言います。それならおにぎりを割って具のところから食べればいいと思うのですが、

「きれいな姿に作られたものを無残な姿にした挙げ句、残してしまうことが申し訳ない」

と。なかなかの詩人です。どうせ残すなら頭からかじっても割っても同じじゃないかと私は思うのですが、全て食べきるのなら割ってもいいと言うので、すぐにタラコのおにぎりを買ってきて、具の詰まったところをBさんが、具のないところを私が食べました。

それから10日ほどして、初診からは半年くらいだったでしょうか、日課だったコンビニでの買い物に行けなくなって数日で亡くなりました。

↓外に具があるタイプだったら迷うことなく食べられたのにね↓
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これまで会った末期がん患者さんの話(その1)
(その2 抗がん剤への抵抗感)の続きです。


かかわった患者さんのうち、印象の強かった人のことを書いてみます。


Aさんは、末期の直腸癌でした。受診するまでに、下血や痛みなど自覚症状が出ていたのに、命にかかわる状態とまでは思わず

「何か怖い病気だったら嫌だから」

という理由で受診せず長期間放置し、最終的には市販の鎮痛剤が効かなくなり痛みに耐えかねて受診に至りました。
一応手術を受けたものの、その時点で余命数か月と言われていました。痛みが相当強くなってからの受診だったため、疼痛管理には早くからオピオイドが導入されました。副作用の吐き気や便秘はありましたが、痛みが増してレスキュー内服が増え、薬剤のベース量が上がるまでの間は痛みで動きづらい時期だという以外は影響なく日常生活を送れていました。

一人暮らしですから当然全ての家事は自分でします。痛みの強い日でもその合間をぬって休み休みしながら、買い物はレスキュー薬の服用後、料理は突然の痛みに備えて煮物中心にする(中断したり再開したりができあがりに大きな影響ないためとか)など自分で体調に合わせた生活をしていました。

オピオイドの量が相当増えてくるとADLの日内変動が大きくなってきて、手すりが欲しいということだったので要介護認定を申請し、結果が出るまで待てないので先に手すりを入れてもらいました。

残念ながらせん妄が度々出現するようになり、自分自身その記憶のないことが怖いから、ということで入院しました。

2週間ほど経って面会に行ったら受付で

「入院中の患者さんにそのような名前の方はいませんよ」

と言われ、そんなはずはないと調べてもらったら

「あ…。とりあえず病棟に行ってください。看護師から説明します」

嫌な予感とともに病棟へ行くと、今朝早くに亡くなり、つい先程ご家族と帰られました、と説明がありました。


↓肉じゃがはよく作っていました。たくさん作って温め直して食べるから三日目くらいにはじゃがいもが煮崩れて、それがまた美味しいと言っていました。↓
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